私のお話
普通のサラリーマン生活からの突然といえる離脱、今日の肖像画家につながる私の道のり・・・・・同じような境遇の方も沢山おられるのではないでしょうか。ホームページ“作家紹介”も参考にご覧いただければと思います。
30歳の手前、大手電機メーカーで半導体事業の製造設備関係の設計をしていたある時期のこと、繁忙部門へ応援の為、配置転換。振り返れば人生の転換期の始まりだったように思います。
古い話ですが1980年当時担当していたビデオデッキの大ブームがありました。同業他社とのベータ・VHSビデオ戦争という時代背景があり仕事に忙殺される。新製品の開発ラッシュで、退社時間が0時を過ぎるのは当たり前、休日出勤も当たり前、半年も過ぎると疲労もピークに、周囲でも休職やら、うつ状態やらおかしくなり始める人が続出。人間はそんなに丈夫に出来ていないようで過労死予備軍状態が続く中、大企業の中の小さな歯車のささやかな抵抗か、自分なりの人生の岐路に立ち、追い詰められた状態で思い悩む。結果勤めていた大手電機メーカーを退職。
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先々のことを考える精神的、体力的余裕もないままの人生の大決断でした。今思えば明らかにおかしな状況で大企業とはいえ社会問題にもなり兼ねないものだったと思いますが、当時は関連の企業も同じ状況だったように思います。私のような経験をされている方も非常に多かったのではないでしょうか。
きれいごとで言えば新天地をめざし、実際は足が地から離れた感じであり、これからどうなるかという不安な心理状態だったと思います。心機一転技術畑から180度世界を変えて営業販売の会社に飛び込む。成果第一主義のなか営業成績次第で待遇のすべてが天地のように別れる環境の下、今までとはまったく違った世界で葛藤。こんな会社もあるのか、と。
当初一向に成果があがらず、どんどんプレッシャーがのし掛かり窮地に追い込まれる。世の中甘くはないと悟っていたつもりでも、しみじみ実感する。持ち前の生真面目さが後押しするものの、すでに崖っぷちに立たされ、生活にも精神的にも困窮した状態。意地でも、逃げるような形で転職するわけにはいきません。戦々恐々とした日々が流れ追い詰められた中、火事場の馬鹿力と云うのでしょうか、ひょんなことからきっかけをつかみ成果が上がり始める。最後まで絶対にあきらめないことがよい方向に導くものだと学びました。
人と人とのコミュニケーションの大切さ、難しさ、厳しさを、お客様や同僚、先輩から学ぶ。肖像画の仕事をすることになった今日、この当時の経験がマネージメントする上での大きな骨格になっているように思います。そして若い方へのアドバイスの源泉ともなっています。
後は失敗を繰り返しながらも次第に会社に溶け込んでいく。いろいろありながらも、二年後には新しい支店をまかされる立場に、生活内容も一変、今度は人の上に立つという難しさを味わう。皮肉にもまたも仕事に忙殺される状態が続くが、同時に周りに支えられ、人の温かさ思いやりへの感謝の気持を一層強く持つ。どんな状況であってもあきらめずに現実をしっかり見つめ、前向きに頑張れば何か良い評価が待っているようです。
振り返れば、10年近く平均睡眠時間4、5時間の生活。この数年自分なりに仕事に奔走し、目先の現実に立ち向かってきた日々です。大きな会社ではありませんでしたが、1985年取締役に昇格。自分なりに歩んできたことに対してささやかな節目を得ることが出来ました。同時に、もちろん会社というものは生き物と同じですからいろんな状況に対応変化していかなくてはなりません。責任ということで言えば何十倍も重いものを背負うことになります。役員になることによって会社経営の方針に対して反りの合わない部分もより身近に感じ、今まで見えなかったことも見え始めた頃でしょうか。一度の人生、命の時間を費やすことに見合う、かけがえのないもっと大切なものがあるのではないかと、足踏み。40歳も手前になり今までの人生を振り返り、そして残りの人生を考えます。そして模索します。このままで納得のいく自分の生き方といえるのか、すでに悩み始めたこの時点で答えは明確でした。